宗教のお話

ニコ生で動画供養に参列してきました。神沢です。


蝉丸Pこと仁鐵住職が導師だったので、まあ、正直言ってしまうと読経後の法話が目当てだった部分が大半なのですが……不謹慎かなあ。
蝉丸Pとは (セミマルピーとは) - ニコニコ大百科



法話は供養についてのお話でした。
なにぶんにも生放送でしたから見逃された方もいるかと。
ご本人のサイトにテキスト版があるので興味のある方はぜひ。
こちらです。「正座さえなけりゃねぇ…」


自分この場ではあまり宗教の話はしないようにしているのですが、
仁鐵住職のお話は、まあたしかに宗教のお話なんですけれども、人が生きていくためにはどうあるべきかとか、人と接するにはどうあるべきかなんていう、日々雑踏は喧噪の中ですと、つい忘れてしまいがちな基本的で大切なことに触れられている部分が大きく、まあ宗教って本来そういうものなのですが、多分に感銘を受けるところがありますので、宗教や宗派問わず、人としてのお話としてご案内させていただいている次第です。


「人間死んだらそこまでなので、せめて悔いの残らないように日々を送りましょう」というのが宗教だと思います。あくまで私見ですが。


悪行を積んで恨み辛みを買うよりは、善行を積んで喜ばれた方が周りの人も気持ちいいだろうし、何しろ自分が一番気持ちいいですよね。


誰だってしかめっ面でいるよりは笑顔でいたいと願うはずです。
自分自身もそうありたいですし、また、自分の書いた文章が誰かに何かを及ぼすことがあるのなら、叶うことなら負の気持ちより正の気持ち、がっかりさんになるよりはにっこりさんになっていただきたいなと願うのです。なので自分の記事は「頭に来ちゃいました」より「うれしくなっちゃいました」を大切にします。
(文章屋的には「頭に来ちゃいました」を提示することによってさまざまなものの見方を案内することも重要な要素かとは思います、悪行に対して「頭に来ちゃいました」は必要なことですし。)
(自分のモノゴトへの採点方法は減点採点ではなく、加点採点の視点というところも大いにあります。かんざわさんはほめてのばすたいぷです)


実際死んだ後のことなんてわからないじゃないですか。
見てきた人がいるわけじゃありませんし。
此岸(しがん:この世)から彼岸(ひがん:あの世)は放つ矢弾と同じでして、
三途の川の船頭さん、渡し賃の六文銭を渡したら向こうに行くっきゃないのです。帰ってきた人なんて一人もいません。
だからこそ、死んだ後のことなんてわからないからこそ、一回こっきりの人生、悔いなく楽しく生きられるように、生き方暮らし方人との接し方、行動原理とその理念、そういった「自分が自分であるためのアイデンティティ」として宗教は存在しているのではないかと思うんですよね。


「死は生の対極ではなく、その一部として存在している」と書いたのは村上春樹でした。そうですよね。死は生の反意語ではありません。「生きることの終わり」が死です。死という名の生のゴールです。人は生まれることによってこの世に生を受け、死ぬことによって生を終わらせます。


「どのように生きていくのか」が、大切なこと。


葉隠』の名文、「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、本来「武士道という生き方を貫きなさい」という意味で、決して「剣振ってチャンバラやってさっさと死んでしまうことがかっこいい」のではないのです。「生きることを大切にする」ということなんです。きちんとゴール(死)まで大切に生きなさいよと。


宗教というのは死んだ人たちのためにあるものではなく、
今生きている私たちのためにあるものです。
「法要によって亡くなったご先祖様を敬う」当たり前のことです。
えろげー系テキストサイト的にいいますが、
「ご先祖様があのときファックしてなけりゃ今のあなたはそこにいないんです」
ファックして孕んで産んで育ててきたんです。
何世代も何世代もそうしてきたんです。
人間が人間である前のお猿さんの世代からそうやって命は連綿と続いてきたんです。その中で誰かひとり欠けても今のあなたはそこにはいない。飢饉、疫病、貧困、戦争、その他もろもろさまざまな困難があり、それらをご先祖様がくぐり抜けて来たからこそ、私もあなたも今ここにいることができるんです。
「生まれただけでまるもうけ」明石家さんまの言です。
あの日あのときお父さんとお母さんが出逢わなければ、
あの日あのときおじいちゃんとおばあちゃんが出逢わなければ、
あの日あのときひいおじいちゃんとひいおばあちゃんが……。
……。
無意味に叱られた時があるかも知れません。
八つ当たりを受けた日があるかも知れません。
その存在を思い起こすだけで心情の持ち方に置き所のない不穏さがある方もいるかも知れません。
でも、その方がいなければあなたはこの世に生まれなかった。
その方がいなければ私もあなたも今ここでこうして出逢うことがなかったんです。
自分を大切にする、
今生きていることを大切にするとは、
生まれた来たことを大切にすることでもあり、
自分を産んだ両親、その両親を生んだおじいちゃんおばあちゃん、
そして、そして、そして……。
ご先祖様を大切にするということは、
ご自身を大切にすることとなんらかわりはありません。


……少し言葉が過ぎました。
「今日もご飯がおいしい! こうしておいしくご飯が食べられるのも数万年前にどこかのお猿さんが交尾してくれたからなんだよなあ。ありがたやありがたや」
……とは思わないですからね。
考え方どこまで飛躍してるんだ、と。
頭の中沸いてる? ……言われかねません。


数万年前のお猿さんに感謝することはむつかしくても、
お仏壇の中、位牌に掘られた戒名、幼い頃のご自身の記憶、時に優しかったり時に厳しかったりしたその存在、ありませんか?
日々の日課としてされている方もおられるかとは思いますが、
そうでない、忙しくて機会が作れないとか、分家なので仏壇が家にないとかなど事情は人それぞれですが、
「ご先祖様を敬う」
その行為自体はとてもよいことだと思うので、
ご自身の日常に支障がない範囲で行う分には日々を生きていくことでとても重要だと思います。
「今日も健やかに日々を暮らしています。あなたがいてくれたから今自分はここにいます。ありがとうございます」
やり方かたちスタイルは人それぞれですが(それこそ宗教宗派の話です)、仏壇やお墓の前でなくとも、目を閉じてそっと思うだけでもできることではありますので、今ご自身がここに存在している「生まれただけでまるもうけ」をご先祖様に感謝することも、ご自身のこころを静かに落ち着かせることにも繋がると思うので、神沢としてはおすすめです。



……。
今日はずいぶん宗教話になっちゃいました。


せっかくはついでなので宗教は仏教話、もうすこし。



布施について。


布施とは本来の意味で言うと、寺院に金品を寄贈することではありません。
心の在り方、気の持ちよう、そしてそこから来る言動のことです。
お坊さんに払う読経代のことではないんですね。
(貨幣の存在意味はその一つに「労働の対価」というものがありますから、仏門に関わる、というかその専門家であるお坊さんにお経を読んでいただいて、そのお礼にお金を包むという行為自体は正当です。ただ、結果論です)


布施の種類には財施(金品を施すこと)、法施(仏の教えを施すこと、蝉丸Pの法話もこれに含まれます)、無畏施(災難に遭っている人を慰めること、震災や入院患者さんのお見舞いなどです)、和願施(笑顔で人と接すること)などがあります。
……ある意味今日のこの場も法施です。



財施。金品を施すこと。デジタルで世知辛い平成当世、目に見えてわかりやすいのは財施ですよね。ですが財施は「布施の一種」であり、財施のみが布施ではないのです。ありがたいらしい壷やお札を買うことがイコールで布施とは限りません。


法施というのは仏の教えを知らないとできないことですから、普段日常に忙殺される私たちにはむつかしいことです。


無畏施というのは……実は皆さんけっこうテレビで観てます。皇族の方。陛下や皇后が罹災地に赴くのは無畏施の意味もあります。思想の右や左の詳しいところは申し上げませんが、この場合は宗教の垣根を通り超えて、日本人として当たり前のことなのかも知れません。
私たち庶民レベルだと……そうですね、病気の方のお見舞いだの、失恋した友達と酒を飲んだりとか。「慰める、励ます」が、無畏施です。


和顔施というのは……にこにこしていましょうということです。笑顔。自分が個人的に一番お薦めしたいお布施です。
だれだってしかめっ面している人よりにこにこしている人に話しかけたいじゃないですか。それと同じこと。
「それをやられたら相手はどう感じるでしょうか?」
やる前に自分に聞いてみてください。
忙しいよね、困ってるよね。知らず眉間にしわが寄ってることもありますですよ平成当世世知辛いこの世の実情。
でもあなたに頼りたい人がいるんです。あなたにしか頼れない人がいるんです。
相談したいのにあなたがそんなにしかめっ面では……。
笑顔ですよ、笑顔。
自分が苦しい時ほど笑顔を忘れないでいてください。
経験談ですけれど、自分が苦しい時って周りの人も全員苦しいので。
笑顔ですよ、笑顔。
ウソでもいいから笑ってください。
泣きたい時は……うちに来てくれれば。





宗教というのは実はお金がかかります。
これはホントに。



具体的にどうお金がかかるのかというと、


「仁鐵住職も人間なので生きていくためにはご飯を食べなければならない」
程度に、お金がかかります。



ニコ生の動画供養、
視聴者は最終的に1万人を超えていました。
お疲れさまですとご本人も好物な缶コーヒーの一本も捧げていいのでは。
120円×1万、120万円ですね。
そのくらい価値のある法話でした。
……自分が出せるのは缶コーヒー一本ですけれど。




宗教は話し出すとむつかしい言葉(専門用語)に入りがちなので
日々の暮らしの中にあるものとはいえ、敬遠がちになります。


言語は文化と不可避性を持ちます。
「歌は世につれ世は歌につれ」
歌をなす言葉もまた、世につれるのですね。


むつかしいことばで深く掘りたくはないのです。
やさしい、かんたんなことば。
言葉、言の葉。


届いて欲しいなあと思う自分の日々なのですが
はたしてどうだろう、
届いてるのかな。


ふとそんなことを思った日のこと。




うん。



【追記・警告文】
仏教には「喜捨」という言葉があって、ご自身の財産を布施するやり方がありますが、目の前の苦境に悩んでご自身の生活を苦しめてまでやることではないのでそのへんご注意を!!!


心が弱まったら自分の力で立ち上がるしかないんです!!!


壷のおかげじゃない、お札のおかげじゃない、苦境から立ち上がるのはあなた自身のちからなんです!!!


……、
つらい時こそ笑顔を忘れないでください。


泣きたい時は、
自分はあなたのことはよくわからないけれど、
聞くだけならお供できますので、
自分はとことんおつきあいさせていただきます。
こんなところでよろしければ。
うん。