宗教トークまとめ

自分のこの場でいちばん人気のある例の植物ですが、決心しました。
投薬します。
このままいくと実る前に最終回になる可能性が出てきました。
詳しくは次回、25日を予定しています。神沢です。



自分この場で宗教系のお話しはわりとさせていただいています。
仏教を下地にしたモノがメインですね。
ただそのお話しをさせていただく際に、
毎回事前に申し上げることを今回も申し上げます。


・宗教は今生きている人たちのためにあるものです。
・自分はあらゆる宗教、宗派への勧誘活動は一切行いません。


今のところはですね、
自分が仏教に触れる機会が多くて(つい最近祖父母の三回忌が終わりました)、そこから学んだりもしたものですから、そこがきっかけで。
あとは蝉丸Pという方を知ったからでしょうね。
おもしろおかしくためになるお話をいただけたんでそれに感銘して。


宗教からの教え。


細かく突っ込むと確かに宗教宗派の話になりますし、
敷居の高い専門用語がばんばん出てくるんですよ。
ですがそんなのは自分の取り扱い範囲じゃないなあと。


でもそれを自分で読み込んで呑み込んで、
自分なりに普段の生活の中での活かし方に考えたら、
わりと面白い……面白いというのは失礼に当たるのかな。興味深いと思えるようになったので、この場でお話しさせていただこうと思い立ったわけです。


今は仏教がメインですけれども、
自分としては別に仏教だけにこだわるつもりはないです。
仮にそれがキリスト教であってもイスラム教であっても、
普段の生活の中で役に立つような何かが自分に見つけることができたなら、それについてお話しさせていただこうと思ってます。


まあ宗教トークというより、金言格言に見る日々の暮らし方のアドバイス、というようなことになるんでしょうか。



これ以上の前置きは冗長になるので、それでは本題にいきましょう。



では、
はじめます。


自分この場でいくつか仏教が元ネタの言葉をいくつか紹介させていただいたのです。動画を引っぱってそれで済ませてしまった回もあるのですが。


・『和顔愛語でありましょう』
ここでいう『和』とは調和の『和』 人と接するときの物腰として、攻撃的なだけであったり、自己主張するだけであってはよくないことです。
『愛語』の愛、仏教で言う『愛』は現代日本語で広く通用する『愛』とはちょっと違うのですが、『思いやり』と読み替えてください。用いる言葉にはトゲトゲしさより柔らかさを。これだけでずいぶん違うものです。


・『我利我利より自利利他』
自分だけ良ければいい、我に利することだけあればいいという考え方や気の持ちよう、そして行動が『我利我利』です。
人間誰だって一人で生きていけるわけではないので、自分だけ良ければいいという考えではなく、自分以外の人にもイイコトがあるように動くことです。
ここで気をつけなければイケナイのは、自己犠牲ではないということ。
自分を犠牲にして他者だけに利があったら、その人は申し訳ないなあと心残りができちゃいますよね?
たとえばですね、自分がいます、友達がいます。二人です。
お互いおなかが空いていて、おにぎりが一つありました。
自分だけ食べちゃったら『我利我利』
友達にあげちゃったら『自己犠牲』
おにぎりを二つに分けるんですよ。
一つのおにぎりを二人で分け合って食べる。
自分にも利があり、他者にも利がある。
これが『自利利他』の意味するところです。



・『和顔施でいきましょう』
お布施の話をしたときにお勧めしたお布施の一種。
布施とは本来『施し』を『布せる(与える)』ということで、
自分自身が持っている何かを誰かに与えるという意味です。
モノやオカネというのもたしかに持っているものの一つなのですが、
人間に持ち物というのは物質的な側面だけではなく、精神的な側面もあります。
和顔というのは穏やかな表情、人間誰しもが持っている精神的な側面。
要はね、
ニコニコさんといるのと、怒りんぼさんといるのと、
どちらの方と一緒にいたいですか?
それだけのことなんです。
怒りんぼさんであるよりニコニコさんでありましょうと、
ただそれだけのことなんです。
誰かの笑顔はそれを見た誰かもまた笑顔にするモノです。



・『供養の心を持ちましょう』
この話はかつて引用で済ませちゃいましたごめんなさい。
今回ちゃんとお話しします。
供養というと、
お墓参りは墓前に花や故人の生前の好物などを『お供え』するイメージが真っ先に浮かびます。
『お供え』することによって故人を『養う』というイメージが言葉から読んでとれるのですが、
確かに間違ってはいないのですが、
正確には『養う』相手が違います。
故人を養うのではなく、
自分自身を養うのです。
養うべきは自分自身の心です。
蝉丸Pの受け売りになっちゃいますが、供養の本来的な意味は、
「自分と縁のある方々全てが、幸せでありますように、苦しみから逃れられますように」と、念じ考え、そして言動に移すことです。
『養い』を『供える』わけですね。



・『薫習ですよ、薫習』
結論から言えば癖付けと習慣化ってコトなんです。
「薫りが習う」
イメージとしては中高の古文の教科書に出てきた平安時代の屋敷です。
屋敷の中でお香を焚くのが当時の流行りでした。
お香を焚きつづけると、やがてその薫りは衣服にも染み込むことから、
「ずっと継続していることはいつしかあなた自身のキャラクターになる」
ってことなんです。
人間はね、
元からは善でも悪でもないんです。
慣れ親しんだ方向にキャラクターが推移するんですよ。
笑顔で居続ければ笑顔の人になりますし、
毒づいて居続ければ毒づいている人になります。
ただそれだけのこと。
ただそれだけのことなんだけれど、
それがとても大切なんです。




うん、
駆け足気味でしたが、こんな話をさせていただいてきました。



まあ読んでおわかりの通り、下地は仏教ネタなんですが、
結果としては仏教トークにはなってないですよね。
そもそも仏様を拝めと言う気はさらさら無いですから自分。
自分は拝んでますよ。それが自分のアイデンティティですから。
何を拝むかはその人次第です。


強制をする気はありませんが、宗教に対して薄甘い意識だと逆に宗教にやられちゃうのでそのあたりは気をつけた方がいいと思います。
新興宗教にはまって身を破滅する人ほど、それまでにご先祖様のお墓参りとかしていないらしいので。だからやっておいた方がいいですよと。


「あなたが今不幸なのは、人生に失敗したのは、家族の誰かが大怪我したり大病を患ったりしたのは、ご先祖様への供養が足りなかったからです」



人間不安な時ってなんにでもすがりたいモノで、そんなときこんな角度で新興宗教はするっと入って来て財産とご本人の家庭全てを根こそぎ持っていこうしとしますので要注意です。


対策方法は、ご自身の宗教をちゃんと自覚してアイデンティティを確立することです。問題の根本的解決にはならないかも知れないけれど、少なくもと新興宗教に根こそぎ生活を奪われたりはしないです。



仏教じゃなくてもいいです。
キリストでもイスラムでも何でもいいんですが、
ご自身の信仰はどこにあるのかをきちんと自覚した方がいいです。


そうすれば、
そしてその通りにやってれば、


「あなたが今不幸なのは、人生に失敗したのは、家族の誰かが大怪我したり大病を患ったりしたのは、ご先祖様への供養が足りなかったからです」


「いえ供養はちゃんとやってますので少なくとも原因はそこじゃないです」


そう言いきって追い返せます。



今日の日のこの場は、ちょっと大人向けですね。
身内仲間うちで今年新盆が二人いるんです。
それをちょっと思って。
かつての自分を思い出して。


宗教もとい葬儀っていうのは故人のためにあるのではなく、
送り出して今ここに在る生きた人間のためにあるモノです。
人一人故人になって送り出すって簡単なコトじゃないんですよ。


仏教が日本に入ってくる前の縄文時代からも貝塚から埋葬されたと見受けられる人が発掘されたりもしているのです。



お盆、
近いですね。


有明に同人誌を漁りに行く計画を立てる前にちょっと考えた方がいい。


そう思うのです。


うん。