二年生の家庭菜園 その5
今日はちょっと収穫にちなんだおはなしなどを。神沢です。
最近の収穫。
7月22日 ミニトマトとパプリカ『ライムホルン』
7月25日 ミニトマトとししとう。赤いのもししとうです。熟すと赤くなるのです。ピーマンやとうがらしの仲間なんですね。
7月29日。この日は豊作。ミニトマトと左上に『ライムホルン』
その下の濃い緑色とその右、丸いのもパプリカです。
左下の赤く細いのはとうがらし。『日光とうがらし』と『げきから』という品種。
下中央の緑色はししとうで、
右下の大きい赤いのは『韓国唐辛子』
今年はとうがらしを多く育てています。
韓国唐辛子の上の細長い緑色は昨年から植え続けているアスパラガス。
ウチで収穫するアスパラガスは身内仲間うちの一人から『ミサカ妹』と呼ばれてます。
そのような解説をさせていただいたからなのですが……。
そして本日、8月1日。ミニトマトのみ。
本日は収穫量がだいぶ減ってしまいました。
コレには理由がありまして。
まず、
これらの収穫は5月アタマに土作りを始めて、
それからそれから、
苗植をして、草むしりをして、日々の水くれ(群馬弁:水やりのこと)をして、
そしてようやくの実り始め、
最初の収穫であるかなあと。
ミニトマト以外の野菜はそうそうすぐにはたくさん実らないものです。
まだね、
ししとうもとうがらしもピーマンも
収穫にはちょっと早い、「おおきくなあれ」と声掛けしている段階の仔が多いのです。
食べ頃は収穫どきになったら、
徐々に少しずつ。
逆にミニトマトは成長も実りも早いのですね。
伸びた枝に花がついたなと思ったら、
あれよあれよという間に青い仔が実り始めまして、
気付けばあっという間に収穫時期の色です。
今年は数種類のミニトマトを植えていまして。
赤にピンクに黄色に金糸雀(カナリア)色(←オレンジです)
『男子三日会わざれば刮目して見よ』なんて言葉がありますが、
いえいえそれは男子ならずとも、
女子の人だってそうですし、
いわんや野菜においても。
収穫時期に入ったミニトマトは目が離せないのです。
自分はお勤めの関係上、三日か四日おきにお休みがあるのですが、
お休みの朝、この時期は朝起きてまず最初にすること、
ミニトマトの収穫です。
本当にたくさん実るのですよ。
理由は雨なんですよ。
ここ数日、
関東は『戻り梅雨』なんて言われる雨天が続いています。
例年ならば梅雨も明けて照る陽射しに悲鳴を上げているところなのですが、
今年はちょっと……雨が続いていますね。
雨が続くとどうなるかというと、
実り時期はこの時期、
トマトにとってイイコトがあまりありません。
『裂果』と言いまして、
実が割れてしまうのです。
『裂果』というモノが具体的にどのようなモノなのかといいますと、
はい、写真にて。
雨が降るとトマト(実ではなく本体)は根からその分の水分を吸い上げるのですね。
吸い上げた水分は茎から枝葉に行き渡りまして、
その先にある実にも行き渡ります。
実が育つ、大きくなるスピードよりも水分供給が多くなると、
このように実が割けてしまうのです。
こうなってしまいますと、
見た目もよろしくありませんし
舌触りや歯触りも割けていないものと比べるとよろしくないので、
(味そのものは変わりませんが、やはり見た目は重要な要素です)
本職の農家さんは市場に出さないのです。
(……それ以前に本職の農家さんなら裂果しないように手を打っているのですが)
ただ、
あくまで私見ですが、
裂果そのものはトマト本体の、本来の『姿』『在り方』としては、
『有り』なんだろうなあと思います。
もう一枚裂果の写真を。
種が見えてますよね。
このまま落果すれば大地に次世代を残せるのかも、と思うのです。
人間と違って植物の命、その繋げ方はスケールが桁外れです。
『鳥に食べられて糞になってどこかの大地に落とされて、そこで次世代の繁栄を望む』なんていう、途方もない考え方ができる命です。
……ちょっとシモの話になりますが、種って、食べても消化されないで『出てくる』でしょう?
野菜と向き合い、
大地と向かい合いますと、
家庭菜園程度の規模ではある自分ですが、
それでも命のすごさには頭が下がるばかりです。
そんなこんなで本日、
実は
この三倍くらいの収穫があったんです。
裂果していたものは全て大地に戻しました。
裂果してすぐなら食べるコトもできたのですが、
黒い斑点……カビです。生えてきてしまっていて。
青いモノにもそれはあって。
枝葉への影響も考え、大地に戻すことに。
んー、
とはいえとはいえ、
いわゆる『捨てた』ワケではないのです。
行き所を失ったというワケではありません。
拙宅の菜園はその片隅に家人手製のコンポストがあるのです。
コンポストと言うのは簡単に申し上げますと……生ゴミを肥料にするための設備ですね。
ホームセンターなどでは残飯などにも対応した密封式のモノが取り扱われていますが、拙宅では草むしりしたあとの草や、秋口に掃き集めた枯葉、そして今回のような食べるには適さないような収穫物などをまとめています。
肥料としてリサイクルするわけです。
家庭菜園やってますとね、
どうしても『食べる』ということを考えるのです。
そりゃあ確かに食べるために育てているワケですから、
育てている以上は食べたいのです。
「即物的だねえ」
そうかも知れません。
「いただきます」をしたいから、
5月の初夏から土に鍬を入れ、
耕し、
肥料を入れて、
土壌の発酵を待ち、
苗を植え、
成長に一喜一憂し、
実りを期待しているのだと思います。
「いただきます」をしたいから。
ただそれだけの理由です。
では、
「いただきます」とは?
それは自分の命のために他の命を「いただく」ことなのではないかなと思うのです。
命だけではありません。ないのです。
自分の命を繋げるために今食べているこの品。
たとえばコンビニおにぎり一つにとっても、
どれだけの命と、
どれだけの人との関わり、
どれだけの自然の恵みがあって、
今自分のこの口に届いているのでしょうか?
「きれいごとだろ?」
かも知れません。
大切なことは、
「いただきます」のその後のこと。
人は誰しも、
『いただく』コトをしなければ、自身の命を繋ぐことができません。
『いただいた』分だけ、
そのご縁に感謝する姿勢が大切なのではないかな、と、思うのです。
『いただいた』分だけ、
その分相応に成し遂げるだけの何かがあるのではないかな、
そう思うのです。
・
・
・
宗教くさいですか?
うーん。
実は!
というより、
この考え方は仏教のモノなんです。
……とはいえ、
あんまり構えないでください。
宗教とかね、
それはどうでもいいんです。
あくまで、
あくまで、
モノの考え方として、
こんなのもありますよ、という程度のモノでして。
仏教についてのむつかしいお話がお好みならそれは専門サイトさんのほうに回っていただくとして。
早い話がですね、
「食べた分だけ元気に行こう!」
それだけの話です。
うん。